あったらあったで嬉しいものとしての文学、映画、ロックンロール、TVのポップバランスについて

最近接した、以下のようなものから、表現が直面している課題について思うところがあった。
それは、一言でいえば、音痴で、手触りが悪く、ポップでないものが、ジャンルを問わず多いのではないか、
ということだ。共有出来ないイメージは、妄想でしかない。



NHK 日本の、これから「どうなってしまう?テレビの、これから」
『あとのまつり』(瀬田なつき
中原昌也 映画の頭脳破壊』/文藝春秋/2008 再読
『小説の読み方、書き方、訳し方』/柴田元幸 高橋源一郎 河出書房/2009 
MC5 /HIGH TIME
Dinosaur Jr /I don't wanna go there (new song)
『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか/樋口泰人/青土社/1999
文学2008/日本文藝家協会=編/
『建築を読む』/梅本洋一/青土社/2006/再読
新潮/2008.9月/
 「日本語が亡びるときー英語の世紀の中で」/水村美苗
 「このあいだ東京でね」/青木淳悟



NHK 日本の、これから「どうなってしまう?テレビの、これから」において、一番良かったのは糸井重里であった。
他の出席者の大半が(視聴者、TV局社員、評論家など)が、TV離れについて論じるなか、「テレビくっつきが直っただけ。今までが、テレビを見すぎていたのだ。」と議論の盲点を指摘。また、自分の会社と同じく、テレビもあったらあったで嬉しいものだと思う。もっと質の高い番組も、くだらない番組も期待したい。」(つまり、もっと見たくなるテレビ番組を期待したい)と述べていた。

これは、他の表現形態の作品についても、当たり前だが、それに関わる人たちの盲点となりやすいことだと思う。
例えば、文芸誌や、話題になっている日本の小説は、大抵、文学村以外の人たちにとっては、それを読むことが苦痛になるようなものが多いのは気のせいだろうか。日本語で小説を書くことについて、その限界を考えたり、それを実践したり、はたまたそんな問題などないように振る舞ったりと、各人が頑張っているようだ。

しかし、例えばそれらを読むよりも、個人的には、「わたしが歌うとき」/リチャード・パワーズや、「世界のすべての七月」/ティム・オブライエンを読んだ時の感動の方が、遥かに大きかった。また、世間への反響の大きさも、それに比例するのではないかと思う。(例えば、「わたしが歌うとき」を絶賛する書評の内容など。)

自主映画から商業映画まで、面白い作品は、なぜその作品において、その表現を採用しているのか、ということについての洞察が反映されているのではないかと思う。例えば、桃まつりのパンフレットを読むと、「あなたにとっての映画とは?」という問いに対し、「人生や世界を覗ける映像と音でできた窓?」と簡潔に答え、次の「好きなものについて」という問いには、「プリン。たまに『お疲れさま自分』と買ってかえります。」という微笑ましい答えをしているのは、いうまでもなく瀬田なつきである。

「映画の舞台となった場所について」という問いには、以下のような回答をしている。
数年後には、もう、同じ風景が見えないような場所で撮りたいと思っていて、豊洲付近にある埋め立て地の工場現場付近で撮影しました。
それは、おそらく成長過程の役者にも言えるのではないかと思います。
今しか撮れないものをフレームに収めたいと、そこには、少しの現実が映るのではと思っているのですが。

ロケーションについては、こののようにも答えている。
http://www.nobodymag.com/momo/2009/index.html

ゆりかもめを見に行く設定は予め書きましたが、ロケハンは脚本執筆後に開始しました。キャメラマンの佐々木さんは制作もやっていた方なので、色々な場所を知っていて、彼もざっくり調べてくれました。それで、埋め立て地がいいよねとなって、豊洲のあたりをふたりで見に行きました。そのとき「東京オリンピック宿舎予定地」の看板も見つけて「これはいい!」と思いました。また1年後にここを撮りに来たらジャ・ジャンクーみたいになるかもね、なんて話をしていました。そもそもロケハン巡りは大好きです。たしかに、あの辺りは予め目星を付けてました。実際行ってみたら、建設現場のような荒地のような、もの凄く中途半端な感じがいいなと思いました。
自分には、東京で撮りたいという意識がつねにあります。変わっていくような、変わりつるあるような場所で撮りたいです。

今を逃すと撮れないものとしての、少女と東京。彼女が影響を受けたもののひとつとして、黒沢清の名前を挙げているのも、彼が彼女の指導教官であるから、というだけではないだろう。しばしば登場人物が、用もなくビルの屋上に上がり、東京の風景をフレームに収めるショットがその作品の重要な要素になっているからこそ、黒沢清の名を出したのだろう。黒沢清も、瀬田なつきも、東京で映画を撮る、ということについて、意識的に思考している作家であるからだ。

いくらその志が高くとも、それが現実と向き合っていない場合、その表現は、妄想的な側面が強まるのではないか。
ここでいう妄想とは、リアリズムの対をなす言葉という意味ではない。「ズレている」という意味が近い。表現しようとしているものと、表現されたものとのズレ。その表現を受け取る、自己と他者との感覚の違い。極論すれば、他者にとっては、価値のないもの。わざわざ、今、読む必要のない小説、見る必要のない映画とテレビ、聞く必要のないロックンロール。そう思わせる作品の多くは、自らの存在価値を過大評価しているのではないだろうか。

ユリイカ 2009年2月号』 の「日本語は亡びるのか?」において、面白く読んだのは、前田塁の評論だった。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C6%FC%CB%DC%B8%EC%A4%CF%CB%B4%A4%D3%A4%EB%A4%CE%A4%AB%A1%A9
彼は、金井美恵子大江健三郎といった、優れた現代日本の小説家の作品ではなく、世界中の国々で読まれている日本の小説が、村上春樹のそれである理由について、文体の音楽性ではないかと書いていた。ただ、論考の本題ではないので、文体の音楽性には深く踏み込んではいなかったが。

村上春樹の場合、文章の内容を、どのような文で伝えるのか、ということを、リズムや比喩などを重視することで彼独特の文体の獲得に繋がっていると、個人的には思っている。つまり、伝えたい内容を、どのような形で包めば、より魅力的になるのか、という工夫の結果が、彼独特の文体の心地よさになっている、ということだ。文体が心地よいということは、その文章を読み進めるにあたり、大きなアドバンテージをもたらす。小説という、読者が文章に接することで、その文章が作り出す世界を理解してゆく、という表現形態においては、文章に触れることが、心地よいか、苦痛か、ということが、小説を読む気にさせるか否かに少なからぬ影響を与えるのではないだろうか。小説と読者の接触地点は、文章そのものであるのだから、接触地点の手触りは、いつまでも触っていたい気持ちを読者にもたらすかどうかが、その文章の内容を理解するか否かの前に、まずは重要であると思う。

そして、村上春樹の文章について、もうひとつ重要だと思うのは、彼が「ブロック単位での推敲」をしている、ということだ。一文一文ではなく、ブロック単位(複数の文章単位)で行うことで、文と文とが、アンサンブルを起こす。一文だけ、非常に美しい文章があっても、それが周囲の文章を壊してしまっている場合、彼はその非常に美しい文章の方を殺して、ブロック単位での美しさを優先させる、とかつて語っていた。

このことは、翻訳においてもアドバンテージではないかと思う。日本語で美しい文でも、英語ではそうではない、というケースは多々あるだろう。しかし、それがブロック単位となった場合、複数の文章がまとめて起こすアンサンブルは、他の言語においても、引き継がれやすいのではないだろうか。異なる言語間においても、その言葉と言葉の関係性は、共通のものを見つけやすいと思われる。本来であれば、日本語と他の言語の村上作品を、ブロック単位で検証すべきだろうが、ここでその余裕はない。ただ、以下に引用する複数の文章の固まりは、他の言語におきかえても、ある程度のアンサンブルを保ち、あるいは新しいアンサンブルを追加して鳴り響くのではないだろうか。

実をいうと、僕は結婚したことによって初めて、自分がこの地球という太陽系の第三惑星に住む住人の一員であることをありありと実感することになった。僕は地球の上に住み、地球は太陽のまわりを回転し、その地球のまわりを月が回転している。それは好むと好まざるとにかかわらず、永遠に(僕の生命の長さと比較すれば、永遠という言葉をここでも使っても差し支えないだろう)続くことなのだ。僕がそんな風に思うようになったのは、僕の妻がきっちりとほぼ二十九日ごとに生理を迎えていたからだ。そしてそれは月の満ち欠けと見事に呼応していた。彼女の生理は重く、それが始まる前の何日かは精神的にひどく不安定になり、しばしば非常に不機嫌になった。だからそれは僕にとっても、間接的にではあるにせよ、かなり重要なサイクルであった。僕はそれに備え、不必要なトラブルが生じないようにうまく処理していかなくてはならなかった。結婚する前には、月の満ち欠けのことなんてほとんど気にもとめなかった。たまにはふと空を見上げることもあったけれど、今の月がどういうかたちをしているかなんて、僕とはまったく関係のない問題であった。でも結婚したあとでは、僕はだいたいいつも月のかたちを頭にとめているようになった。

この、ねじまき鳥クロニクル第一部の冒頭(文庫版P56)のブロックは、月と生理の関係が、妻と僕との生活のリズムに大きな影響を与えるようになったことと、月に注意を向けることで、これからどのようなことに備えなければならないのかを考えるようになったことが語られている。月と生理、妻と僕の関係。それは、他の言語に移築されても、読者に換気させるイメージは、日本語のそれが喚起させるイメージと、そう遠くはないのではないか。原型をとどめやすいのではないか。

猫が消え、妻が去り、生活のリズムが崩れる。あるいは、井戸に入り、夜空を見上げ、月を見る。満月が出ているのだから、妻はきっと不機嫌なはずだ。だから僕はいつもよりも妻の言動に気をつけなければならない。いつもより優しくしようとしているのに、妻とはずいぶんと離れたままだ。孤独を求めて、井戸に入る僕の気持ちが、このように語られているかは覚えていないのだが、井戸から見える月を見て、そこに妻のことが語られていなくとも、日本の読者と同じく、外国語の読者も、僕が思いを馳せるように、妻のことを考えるのではないか。

もし、生理のリズムの記述が、月ではなく、月に一度、妻が楽しみにしている女性月刊誌の名前と関連つけられていたら、翻訳しても海外の言葉では理解に苦しむと思う。月を選んだことは、翻訳後のことを考えていたのか否かは、作者以外には知る由もないが、月を選んだ、という結果は、村上春樹の選択が、他の言語への移行を滑らかにしている。
無論、1992年に発表されたこの文章を、2009年に日本語で読む際にも、それが書かれた当時の読者の受けた感触と、今の読者が受ける感触とは、さほど違わないのではないか。女性誌そのものが廃刊していたり、女性誌が想起させるイメージが違ったり、というズレが起きないからだ。

音楽性を、手触り、と言い換えてみよう。心地よく、手に取りたくなる魅力を備えたもの。あるいは、触覚を通して、その作品の魅力が直に伝わるもの。何度もなで回すことで、より深い価値が出てくるもの。
例えば、ジミ・ヘンドリックスのギターソロと、バカテクギタリストや前衛音楽のギタリストのギターソロとの違いは何か。

必要のないところで長々とギターソロを行う。
繰り返し聞くに耐えない。
メロディーがいびつすぎて聞いていると不愉快になる。
飽きる。

文学2008や新潮/2008.9月をパラパラとめくっていて、手触りのいいなと思うメロディーは、どこにあるのだろう。
文学村の外の世界でも、それが美しく響くものは、どこにあるのだろう。
いびつで、窮屈で、どうでもいい、と思えてしまう文字の羅列ばかりではないかと思う人が多いのではないだろうか。
第一、ユーモアがなくてカサカサしている。

次々と公開される映画の中で、日本村の外の世界でも、それが望まれる映画はどれだろう。
あるいは、時の風化に耐えて、何度も何度も繰り返し読まれたり、見られたり、聞かれたりする作品は、どれだろう。

本当に優れた表現は、志が高く、度重なる再生に耐え、間口が広いのではないか。
そういうものこそ、長い期間、多くの人に愛されるものとしての、表現としての、商品としての存在価値が高いのではないか。

音楽性は、手触りであり、それは表現者が、自らの作品に注入する、手に取ってもらう相手へ示す優しさという配慮の表れではないか。
その作品が、今、その表現形態と内容を伴って、作者の頭の中から、世界へと生み出される必然性。
それが優れていれば優れているほど、いつまでも、何度でも、美しく響くのではないか。

また、そうした充分に配慮をした表現を、受け入れない層が、一定数存在することも事実である。
彼らにとっては、その表現は、不要なのだ。
だから、必要以上に媚びることはない。
これは、「どうなってしまう?テレビの、これから」に出席していた、複数の視聴者代表が、TV局員に指摘していたことでもある。

言い忘れていたが、僕の趣味は、ひどくポップだ。
バランスの悪い、頭でっかちなものや、惰性でべとべとしたものは嫌いである。
そして、それは決して悪いことではないのではないか、と改めて考えた次第だ。