最初の教え/ハードディスクを壊す

ディランの「日本限定!最初で最後のライヴハウス・ツアー!」の先行予約が始まった。
筋金入りのディラン信者ではなく、60年代の神々しいディランが好きなだけの身としては、悩みどころだ。


スタンディングで12,000円。近年のライブ映像を見聞きして、悶々としているうちに、ふと、視界に本が多過ぎるから気が散るのだと思い立ち、ほぼ同額のメタルラックを購入してしまった。本棚もいくつか検討したが、品切れが多く、今回は見送った。


60冊くらいの本を押し入れにしまうと、実に部屋がすっきりした。
ついでに、壊れたままのPower Bookもリサイクルに出すことにした。
起動しないので、ハードディスクを壊すしかない。
6年前、大学を出た春に買って、初期不良を何度も起こしたものの、去年の暮れまで動いていた12インチのPower Bookは、自分にとっての初めてのmacだった。
思い入れもあり、壊れてからも机の引き出しの奥にしまっておいた。
この一年でノートやファイルが増え、仕方なく机の上にポンと乗せていた。
資料の本も20冊ほど乗せていたので、背表紙の題名が目について圧迫感があった。


ギターのメインテナンスで使う口径の小さいドライバーで、Power Bookのネジを外してゆく。
絲山秋子の『沖で待つ』で主人公の女が、同僚の男の家に忍び込み、ハードディスクを壊していた。確か、回転する部分をカリカリと削って、読み込めないようにしていたはずだ。
同僚であろうと家族であろうと、読み込めない個人の記憶のか細さが、とても現代的に表現されていて、頭のどこかに引っかかっていた。


小さなノートパソコンの鋳型に、いろいろな部品を組み込んであるので、東芝製のハードディスクに辿り着く頃には、キーボードはへし曲がり、ジョイント部分の耳は傷つき、元の形には戻せないようになっていた。


肝心のハードディスクは、金属の圧着が多用されていて、分解自体が難しかった。
回転部分をドライバーでこするつもりだったが、無理だった。
本体と接続しているコネクターからハードディスクを外し、錐と金槌を持って表に出た。


3 最初の教え
 私が『怒りの葡萄』の撮影現場に着いたとき、キャストやスタッフは周りを囲んで坐りながら、フォードがカメラポジションを決めるのを待っているところだった。彼はセットの中央にひとり立って、ミッチェル・カメラのレンズから外したファインダーを使ってあたりを見ていた。
 ファインダーは、カメラ本体に装着されたレンズと同等のキャラクターを持つように設計された光学機器だった。通常はカメラに戻せば、カメラ・オペレーターのモニター・レンズになった。当時、監督はよくカメラからファインダーだけを外して、カメラを置くべき場所、つまり自分の「セットアップ」を見つけるのに利用した。長さおよそ三十五センチ、幅十二.五センチ、深さ七.五センチの金属製ケースに入ったきわめて重いものだった。
 フォードはファインダーを両手で持って光と外の世界を遮断するようにして両目の前に押しあてていた。カメラマンのグレッグ・トーランドは、二、三メートル離れたところに立って静かにタバコをふかしながら、辛抱強く待ち続けた。撮影現場には物音ひとつなかった。
 私はエディ・オファーナを見てしゃべりかけようとした。すると彼は唇に指をあて、私をフォードのそばに引っ張っていくと、また退った。
 永遠とも感じられるような時間が過ぎたあとで、フォードはファインダーを目から離さぬまま口を開いた。「君か、ボブ?」
 私はフォードに何と呼びかけたらよいのか分からなかった。ヘンリー・フォンダは、パピーと呼び、ジョン・ウェインはコーチと呼んだ。『怒りの葡萄』の脚本家兼プロデューサーのナナリー・ジョンスンはジョンと呼んだ。・・・
 私とフォードのつき合いは四十年以上にわたったが、サーという呼びかけ以外の言葉を使った記憶がない。一度、彼が私の結婚式の花婿付添人をしてくれたときに、パピーと呼ぼうと思ったことがあるが、言葉は喉にひっかかかったままとうとう出なかった。私には「サー」という言葉が今も昔もぴったりするように思えた。彼はもっとも尊敬されたアメリカの映画監督だった。アカデミーはほかのどの監督よりも彼に多くのオスカーを授けた。そのほか、ニューヨーク映画批評家協会賞を始めとして、英国映画協会、米国映画研究所、合衆国大統領から数々の賞が贈られた。
 そういうわけで、彼が「君か、ボブ?」と言ったとき、私は「イエス・サー。何か御用ですか」と答えた。
 「前に監督になりたいと言っていたな。」フォードはファインダーを見ながら呟くように言った。
 「はいそうです。」私がそう言ったのは五年も前のことだった。それから今の今までフォードは一言もそのことに触れたことはなかった。
 「よし、じゃあこれが最初の勉強(レッスン)だ。私の横にぴったりくっついて、よく聞いておけ。」私は右に進み出て彼の真横に並んだ。そして一言も聴き漏らすまいと思った。「監督になったら、朝セットに来てみると頭に何もアイデアが浮かばないということがときどきある。どんな風に場面をイメージしたらよいか分からない。そうなったら、すぐにファインダーを覗け。やるべきことを正確に知っているような顔をしてセットの中央に行け。そしてファインダーを今私がやっているような具合に目に当てて、目を閉じろ。ここが肝腎だ。目を開けていてはだめだ。余計なものが目に入るからだ。こうするとどうやって場面をイメージするか、見えてくる。キャストやスタッフたちは、こっちがセットアップを見つけようとしていることを知っているから静かにしていてくれる。およそ十五分くらいこうしていると、黙っていても問題が持ち上がってくるのが分かる。フロントのスパイがやってくるのだ。このホラ吹きはフロントに、九時半になるのにまだワンショットも撮っていないとかと報告するだろう。このフロントの犬はたいがいはお偉方の義理の息子とかいった連中で、『現場プロデューサー』などと普通呼ばれているが、十のうち九までが臆病者だ。こっちへ直接やってきて、そろそろ尻を上げろという勇気がないのだ。だからこそこそ裏口から入ってきて、子飼いの手下どもにまず様子を聞く、それからガラガラヘビのように音もなくこっちへやってくると、『やあどうだい、ジャック』とか『ダリルはラッシュが気に入っているぞ』とかロクでもないことを口にするのだ。そこでだ、ボブ、よく聞いておけ、これが肝腎なところだ。そいつが口を開いたら、やつがちょうどいい位置にいることを確かめろ。そうしたら、グルッとファインダーごと頭を振るんだ。」
 そう言って、頭と一緒にファインダーを左に振ったので、私の額に勢いよくぶつかった。額からは血が流れ出したが、フォードはかまわず話し続け、その間もファインダーから目を離さなかった。「これを何年もやってると、だんだんうまくなってゆくのがわかる。一週間に二、三人くらい現場プロデューサーを打ち倒せるようになる。しかも目をつぶったままな。最初の勉強はこれで終わりだ。編集室に戻ってよろしい。私もセットアップが見つかったようだ。」

わがハリウッド年代記チャップリン、フォードたちの素顔 (リュミエール叢書 (20)) ロバート・パリッシュ

ピーター・ボグダノヴィッチの著作で語られていたジョン・フォードの、より詳細なエピソードが満載のこの本が、なぜ絶版なのか分からないのだが、その貴重な本を読み進めてゆくと、フォードがいかにしてフロントの介入を退け、俳優やスタッフの余計な口出しを封じ込め、自分が信じる最良の映画作りの環境を頑に、かつユーモラスに守っていたかが良く分かる。
訳者あとがきには、「そしてフォードの部分のみならず本書全体を通じてのクライマックスである監督組合の総会でのセシル・B・デミルとフォードの対決は、まるで西部劇でも見るように痛快であるととともに、本書がフォード研究の一次資料として高い評価を与えられている事実を裏書きする第一級のドキュメントにもなっている」とある。


玄関を出ると、息が白く立ち上った。星が小さく出ていた。
この一年、俺は何やってたんだろうな。半年は仕方ないとしても、残り半年は酷かったな。

腰を落とし、左手に冷えた感触を与えるハードディスクを足下に置いた。
垂直に錐の背を金槌で突く。ズッと音が響く。錐を抜くと、ハードディスクはカラカラと音を立てた。錐の端が曲がってしまった。

雑念を払い、目を閉じれば、どうすべきなのかがイメージできる。天才はそれでいいかも知れない。部屋を片付けて、視界に余計なものが入らないようにはした。無駄な努力も、無駄な時間も、たくさんなんだけどな。正しいかどうかなんて、なぁ。
直接金槌をハードディスクに振り下ろした。それをキーボードの裏に無理矢理押し込んで、リサイクル申し込みの欄に、自分の名前と連絡先を書いた。受取人は、製造元だ。
それはそれで、間違ってはいないな、と思った。