君の魂のことを書け。

言葉は人を駆り立てる。時に啓示のように、時に呪いのように、瞬時に、緩慢に、行動を規定する。小林秀雄がやっかいなのは、半ば無責任な煽動家としての能力が、批評家としての力よりも勝っているからではないかと思うことがある。批評の穴を指摘されても、小林の言葉には容易に忘れ得ぬものがあり、思考や行動を振り回す。

レイテ島での捕虜を終え復員し、小説を書きたいと思いつつも何を書けば良いのか煩悶する大岡昇平に言った「君の魂のことを書け」という言葉も、大岡のみならず、どれほど多くの小説家志望者を毒牙にかけただろう。

魂のこととは、「換言すれば」、存在から漏れ出る気配をもって、紙を染め上げることではないか。

expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中身を出すという意味の言葉だ。 

小林の『表現について』からの引用を掲げ、靄のように脳にかかっていた言葉の山を頭の外に出すために小説を書き始めたのだが、3万字程書き進め、ようやく本筋に入ろうかという所で中断した。
読み返しても面白くない。3つの階層を設置し、それを統合させることで、自分という存在をexpressしようとした。主人公が一般的な小説の世界に在り、その兄であり分身がこのブログを介して文字通り小説の外の世界と小説を行き来して映画やロックと小説を接続し、そのどちらでもない地の文の書き手を炙り出し、存在のraw dataというかraw wordを、ゴロっとした手触りのまま投げ出そうとした。だが、raw wordなる言葉がそもそもあるか疑わしいように、そんな小説を読んだことがないので自分に完成させることができるかが怪しくなってきた。

そうこうするうちに秋になり、就職活動をのろのろと始め、小説から離れた。紆余曲折があり、知り合いの会社の立ち上げメンバーとして働くことになったが、組織立ち上げの常というか、認可やら融資やらで煮え切らない。金が底をつきつつあるのは自業自得として、小説を手直し始めたが、やはり小説が上手く動かない。ティム・オブライエンデニス・ジョンソンのような小説に少しも近付いてゆかない。損なわれた人生と狂気。回復ではないものの緩やかな復帰。超宗教的な存在、あるいは闇雲な善の希求。それをブルーズとしてエモーショナルに響かせること。だが、当然のことと言うべきか、才能の差はさておき、擦りもしない。

まぁでも、ただでさえ性能の悪い脳を占有していた小説の言葉の山をある程度外部に出してリハビリにはなった。
自分の志向性を考えると、妙な野心を抱いて小説という得体の知れないものに首を突っ込むよりも、ロックに立ち返った方がいいかなと思った。

Pavementもツアー始めたし、ジミの新譜は凄かったしなぁ。ギターを練習し直して、気が向いたら曲を作って自己満足に浸って精神衛生を保てるなら上等だ。
http://spiralstairsmusic.blogspot.com/2010/03/australia-here-we-come-thank-you.html

明日は気温が上がるみたいだし、江ノ島に参拝してぼけっと海でも見て、アテネクリス・フジワラの最終講演に滑り込もうか。

10代の頃から、好みはあまり変わらないなあ。

・・・彼はまた、映画が(映画のジャンルやアメリカ社会についてだけでなく、俳優やその身体の)過去の記憶を共有する観客と映画作家の持続的なコミュニケーションであるという彼自身が認識していることを、この作品に持ち込んでもいる。イーストウッドは、このコミュニケーションに依拠しながら、その意味を深めもする人気作を撮り続けている数少ない映画作家のひとりである。

http://www.athenee.net/culturalcenter/program/cf/cf.html

つまり、イーストウッドは映画史を背負ったスターとしてキャリアを積み重ねている希有な存在ということです。こういう基本的な共有事項は、本当はもっと広く認知されなければならないと思うので、クリスさんはぜひ今回の一連の講義を本にまとめて出版して頂きたいです。そして、大学の一般教養の必須テキストにして欲しい。無理だと思うと端から叶わないのでそうは思わないようにする。