ラストデイズ (劇場映画)/3

2006年04月03日 02:33

年度: 2005
国: アメリ
公開日: 2006年3月18日
自殺したカート・コバーンの死にインスパイアされた、ガス・ヴァン・サントの新作。

2005 LAST DAYS/ラストデイズ
http://www.elephant-picture.jp/lastdays/

○「終わりを静かに見つめるということ」

 『GERRY』、『エレファント』とガス・ヴァン・サントの近作に深く感銘を受けてきたし、ニルヴァーナのファンでもあったので、安心しながら公開初日にシネマライズへ。
 冒頭、見事なシーンが二つ。
 
 深い緑と陰に覆われた森の中で、ぶつぶつ何かを不明瞭につぶやきながら道のない斜面を下る男を、恐らく斜面の対岸にすえられたカメラが「発見する」。「森の中を彷徨う」イメージは、監督が影響を受けた映画(タイトルは忘れたが、ドイツかどこかの映画だったか?)を意識したものなのかも知れない。僕はスクリーンを観ながら、『ポーラX』(レオス・カラックス)「世界のたがが外れた」とつぶやきながら森の奥深くへ分け入ってゆく「姉」とそれを黙って追う「弟」を思い出した。そして、ダンテの『神曲』を少しだけ思い出した。
 西洋の文化では、多くの場合、森は「異界」である。「あちら側」とは、「終わり」を受け入れた者たちが、死に出会う場所である。
 
 カメラが見つけた男は、そういう男であり、そういう世界である。まだ冬の冷たさをたたえた川へと躊躇なく飛び込み、放尿をし、濡れた衣服を火で乾かしながら眠りにつく。私たちの遠い祖先のような、本能が導くように原始的な彼の行動を見ていると、この、全てを捨て去ったかのような男には、もう「理性」すら残っていないのかも知れないと思った。

 カメラが捕らえるのは、突風吹き荒れるなか歩き続ける、そんな男の背中である。『エレファント』がそうであったように、この映画もまた、"follow"の映画なのだと思った。文法的に正しくないのかも知れないが、一言で言えば、"follow his back"である。
 カメラは、眼の前でこれから起こることなど端から期待してはいない。だからこそ、彼の前に回り込むのではなく、彼の背中に導かれるままに、彼の生きた時間を、彼のすぐ後ろから拾い集めるのである。
 
 映画に映るのは、なぜではではなく、どのようにそれが行われたか、ということです、というようなことを、黒沢清は語っていた。換言すれば、映画に映るのは、心理ではなく、行為である。 
 なぜ死んだのか。そんなことは、彼の頭の中を透視する他知る術はない。映画にできることは、その理由を追求することではなく、それに至る時間を見つめることなのである。

 そこにいながら、他者と対話ができない男。体がそこにありながら、意識はそこにない男。そこにいながら、そこにいない男が、体を置いて消え去るまで、カメラは静かに見つめ続ける。
 
 死の周りを彷徨う「ブレイク」にとって、あの森は、「休む」場所なのかも知れないし、「壊す」場所なのかも知れない。体を「突き抜けて」、透明な梯子をよじ登っていった彼は、辿り着いた場所で、まだ"All APOLOGIES"を歌うのだろうか。

 参考
『文学界』2006.3(2?)月号「シネマの記憶喪失」阿部和重×中原昌也
『Switch』2006.No4 「カート・コバーンを『伝説』から救い出すために」 佐々木敦

2006年04月04日 02:40
> さん
ありがとうございます。もうすぐカートの命日なのに、あの映画に対する理解のなさに腹が立って、思わず書いてしましました。

○○さん
こんにちは。
ラストデイズのコミュニティからやってきました。
僕は普段映画を観ません。ラストデイズを観たのもニルヴァーナが好きだからです。
あの映画は『つまらん』だの、『意味分からん』の一言で切り捨てる方が多いですね。しかし、それはちょっと違うような気がします。
そんな中で建設的に批評していて、嬉しく思いました。レヴューというのは本来ああいうものだと思います。
では、またちょくちょく観にきます。