『四川のうた』/二十四城/24 CITYS/ジャ/ジャンクー/2008/ビターズ・エンド、オフィス北野/現在における過去の召還に於いての漢詩と語りについて

http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=192
http://mainichi.jp/enta/travel/news/20090420dde012070040000c.html

めざましテレビに『グラン・トリノ』でクリント・イーストウッドが出演していたので跳ね起きてテレビの前に座る。
日本でも記録的なヒットを願ってやみません。

さて、昨日は、映画館によっては映画サービスデー、女性映画サービスデーということもあり、ユーロスペースは初回だったが四割くらいは埋まっていて嬉しい。平日の午前中なので、若者は僕だけで、あとはシニアの皆さん。朝日、読売、毎日、日経の映画時評で取り上げられていたこともあり、見に来てくれたようだ。産経、東京新聞の時評が掲載されていなかったが、まさか扱っていないのか?今後、産経は読まないことにする。

それから、本題に入る前にいくつか。
まず、爺さん、婆さん。ビニール袋に入れた食い物を120分中90分以上ガサガサいわせ続けるのは止めろ。2時間くらい食わずに我慢出来ないのか。しかも、複数名。映画館で、このガサガサがなったら、絶対にジジイ、ババアだ。奥さんか旦那さんに連れて来られて、映画に興味も持てず、ということなのかも知れないが、物凄く迷惑だ。半世紀以上も生きているんだから、最低限のマナーは守れ。

以下は、個人的な創作メモの意味合いが強いのだが、将来、この作品について監督にインタビューの機会を得る方が、万が一いらっしゃったらぜひ聞いてもらいたいことが含まれているので、ここにも書きます。

広大で、がらんどうとした操業停止間近の四川省成都の軍事秘密工場・420工場に響き渡る重たい鉄骨の打撃音と拡散する残響が、ニール・ヤングのギターのサウンドに似ている、似ていると思いながら見ていた。

ニール・ヤングのギターサウンドの残響は、時折かけるアナログ・ディレイや、オーバードライブさせたフェンダー・アンプの歪みを覗けば、ステージの床下につり下げてあるフェンダーのリヴァーブ・ボックスによるものだ。床をくり抜いてでも設置するため、このリヴァーブ・ボックスの件は、『イヤー・オブ・ザ・ホース』のDVDからはカットされてしまったようだ。床下への設置に拘る理由として、ギターの残響音のみにリヴァーブをかけたいからだ、とギター雑誌などのインタビューで回答している。

クレイジー・ホースの演奏は、とてつもなく音が大きい。ライブ会場も大箱のため、PAによる増幅度合いも尋常ではない。リヴァーブ・ボックスは、入力されたギターの音声信号が内蔵スプリングを振動させて、入力信号音に残響音を付加する仕組みである。極めて繊細な振動のため、上記の条件ではギターの音声信号以外の要素によっても振動が発生してしまう。ギター音以外でリヴァーブが振動してしまうと、例えばロングトーンを伸ばし続けているのに、途中でその音が断ち切られてしまったりする。ギター・ソロでは、単音弾きの音を多様するニール・ヤングにとっては、深刻な問題だ。だから、あくまで床下に装置を埋めるという主張は、至極当然のことだ。

四川のうた』全編に主調低音(これは死語?)として響き渡る鋼鉄の打撃音とその残響音が、ニール・ヤングの出す音と似ていると僕が感じた理由は、その仕組みが似通っているためだと、映画の途中で気が付いた。

工場の音は、熱したオレンジ色の鋼鉄に、(主に)「同じく鉄で出来た」機械やハンマーを上から打ち下ろされて発生している。オレンジ色になるまで加熱をした鉄を加工するために、そのオレンジの鉄を目がけて工場ラインのなかで文字通り機械的に鉄を打ち下ろしたり、人が金槌のような金属を打ち付けたりする。発生した打撃音は、ごくごくたまにしか音を立てないくらいに静まりかえった、つまりもう工場としての役目を終えて、片足どころかその大半を「棺桶」、つまり死に突っ込んでいる、大きなコンサート・ホールのような空間に、残響音として響き渡る。ここでいう残響音とは、一度発生した「打撃音」と、その打撃音の「残響」が、同時に鳴っている、という意味である。

「斧を振り落とすようなギター」と表現されるニール・ヤングのギター・プレーは、肩を激しく上下させて、握ったピックを、鉄で出来たギターの弦に撃ち落とすことで、アタック音を発生させ、床下、つまり樋口泰人が正しく指摘するように、(時にはくり抜かれ)冷えきった空気の充満した暗闇としての「死」の空間につり下げられたリヴァーブ・ボックスが、入力されたアタック音にのみ、スプリングの振動を加えて、残響音をステージ上へと送り出す。

つまり、ニール・ヤングの音も、工場の音も、鉄の打撃音とその残響音が、尋常ではない音量を立てて響き渡る音である、ということだ。

映画を見ながら、もうひとつ思い出したことがある。それは、「早に白帝城を発す」という李白の七言絶句だ。
三峡として知られる長江のある地点から、船で下って故郷を去る、という漢詩である。漢詩では、それを詠んだ場所において、同じくその場所で作られた先行する詩がある場合、それを自らの詩のなかに読み込まねばならない。具体的には、その先行する詩が含んでいた語句を読み込む。俳句の季語のように、場所ごとに決まった語句がある。両岸の断崖絶壁とその底の長江の激流の三峡の場合、それは「猿声(えんせい)」だ。三峡は、猿が多いため、断崖の木の上で泣き叫ぶ猿の声が、谷底に響き渡る。そして、その声は、船が猿のいる地点を過ぎ去っても、後ろから残響音として追いかけてくる。谷底に響き渡る、たくさんの猿の声とその残響音。この「猿声」の甲高い声と長く伸びた残響音は、旅立ちを前に家族や友に別れで、泣き叫ぶ旅人の悲痛な鳴き声に酷似しているだけではなく、それを聞くことで、三峡を下っている間中、すでに終えた別れの瞬間を、何度も何度も旅人に想起させてしまう。

生まれ落ちた瞬間にその生を終える意味で、音と時は同じだ。十二時であれば十二回の鐘を打ち鳴らしてその時を告げる大きくて古くさい時計は、「現在」の誕生を鐘の打撃音とともに祝福し、次の「現在」の打撃音が自らの誕生とかつての「現在」の死を告げる、つまり誕生することと死ぬことが同時に起きてしまう音と時の共通の性質を、時という不可視の概念に音という別の要素を、そして現在にかつて現在であった「死」を付加することで成立している機械である。

四川のうた』の原題は、『24 CITYS』だ。公式ページの監督の発言にもあるように(http://www.bitters.co.jp/shisen/message.html)に、この作品では実在からフィクションの人物まで様々な人たちが、その人がかつて成都で経験した自らの体験を、再現ドラマに頼ることなく言葉だけで語るという構成を選択している。

・・・現在、映画はよりアクションや動きに頼るようになっています。この映画では、私は人々が語る「言葉」に回帰したいと思いました。ここでは、「語り」はカメラによってとらえられる「動き」の一つとしてとらえています。私は、「語り」によって、話し手たちの内奥の感情と経験にアクセスさせようと意図したのです。それが最良の時のことであろうと、最悪の時のことであろうと、いかなる個人の経験も無視されるべきではありません。この映画では8人の中国人労働者の声を聞くことができます。この映画を見ると、彼ら自身の人生のこだまが聞こえるのではないでしょうか。・・・

「加えて」、その人たちが聞いていたと語る歌謡曲とその歌詞や、その体験を補強する様々な詩が、つまり歌謡曲からイェイツ(漢語訳、しかも二度も!)までの「歌/詩(うた)」が、白いテキストの文字として、いろいろなシーンの上に被せられる。この映画の最後は、オフ・ホワイトのビートルを降りて、白いニットを着た24歳(だよね?)の女性が、取り壊し間近の工場のなかでインタビューに答えた後、その屋上と思われるビルの上に出るシーンで終わる。白いニットを着た女性を画面右端に捉えていたキャメラが、ゆっくりとパンすると、成都が、デコボコした不揃いでいびつな建築物の集合体として映し出される。その建築物の上には、悪名高い中国の都市部の光化学スモッグなのか、あるいは成都の至るところで取り壊されているビルがまたひとつ爆破されて立ち上った葬儀場の煙突から吐き出される煙のような粉塵なのか、とにかく異常に白く濁った煙が空に充満していおり、不健康極まりない。その白い煙に、万・夏という詩人の詩が白いテキストで引用される。

成都 消えゆくものを携えながら 生涯 私が誇りとするには 充分なのだ」

その時私たちは、この映画が収めてきた数々のシーンを想起するだろう。爆破によって取り壊されたビルとその結果としての粉塵とがれきの山。軍事機密基地である420工場で製造した飛行機が、部品の欠陥によって操縦に支障をきたしたものの、飛行機を守るためにパラシュートを開かずに死んでいった二十四歳のハンサムな空軍パイロットの写真に恋をしたという女性の語り。そしてその女性の後頭部を映していた鏡の左側で風に揺らめいていた赤いハンカチのゆらゆらした動き。あるいは、現在二十四歳の白いニットを着た女性のインタビュー中に背後のインターチェンジを通過したりそこを入ったり出たりするために旋回する道路を走っていた車たち。

かつて現在であった記憶を、もう一度、音声によって、あるいは、白いテキストの詩として、あるいはメロディとしての歌の言葉と音として、現在に召還すること。その時、かつて現在であった記憶は、話し声や詩や歌によって、その体験した時間の背後に流れていた当人の声やその時代の歌謡曲や、その体験に類似した体験をした詩人が書いた様々な詩によって補強される。記憶を語る現在進行形の現在の背後、あるいは画面の上に、音や文字が付加される。そうした映画が投射されるスクリーンを見ながら、私たちは彼らの記憶だけでなく、かつての記憶もあるいは呼び起こすだろう。そして、思うはずだ。人の記憶を聞く、という行為と極めて類似した構造の映画であると。

現在とかつて現在であったものが、発生した瞬間の鋼鉄の鈍い打撃音とその残響音とが、つまり上から叩き付けられて本来は一瞬で終了するはずの打撃音とかつて自らがその打撃の瞬間に発生させた音とが、広大な空間に拡散してゆく音として、豊かな残響音を響かせる。

こうした「語り」を選択したジャ・ジャンクー監督の前作は、『長江哀歌』である。かつて李白が七言絶句を詠んだ三峡の、ダムに沈む直前を収めたフィルムである。あのフィルムでも、主人公の男が、朽ち果てたコンクリートのビルに、巨大なハンマーを打ち下ろして、解体作業に従事する合間に、かつて妻だった女を探し求める作品だった。その三峡を世界一巨大なダムの底に沈めたのも、十万人が50年間に渡り人生を送ってきた巨大な軍事機密都市を崩壊させたのも、広大な領土を持つ中国政府である。

もし、何の因果かこんな文章を読んで下さった方が、ジャ・ジャンクー監督に会うことがあれば、ぜひ聞いて欲しいことがある。李白漢詩に描かれていた猿声の悲しげな鳴き声は、『長江哀歌』や『四川のうた』にとって、意味を持つのでしょうか、と。ニール・ヤングのギターサウンドが、420工場の打撃音とその残響音とにとって無関係でなかったのと同様に、猿声の響きは、中国人であるジャ・ジャンクーの「語り」の構造に関する思考の背後に、うっすらと聞こえているような気がしてならない。

最後に、いうまでもないことだが、唯物史観共産党政権が権力を握る中国は、その公式見解に於いて、霊魂の存在を認めていない。
だが中国は、「昔々」から、幽霊が登場する説話や漢詩、小説といった「語り」が、言葉によって人民の間に語り継がれている国でもある。

その役目を終え「死」の刻印を押された三峡をダムの底に沈め、成都を崩壊させる強大な権力を公使する中国政府。追従するかのように、都市部では高層ビルが乱立し、かつて中国であったものやその光景が、次々に消滅している。
だが、肉体を脱ぎ捨て、現在から姿を消し去った過去は、人民の記憶のなかに、あるいはラストシーンの白い煙のように、つねに頭の上を覆っているのではないだろうか。かつてキャメラの前に存在していた「かつての現在の世界の小さな欠片」が、白いスクリーンの上に光を投射されることで、再びその姿を現すように。映画を見る大きな喜びのひとつは、自分(たち)が見る事が叶わなかった「かつての現在の世界の小さな欠片」を、自分(たち)の現在に於いて発見することである。その生々しい切断面から滴り落ちる光と音は、私(たち)の想像を超えた芳醇さを讃えていることがある。

四川大地震が起きる直前に、つまり人為と自然災害で壊滅的なダメージを受ける前に撮影されたために、その内部にかつての四川の一都市としての成都の光景と、そこに生きた人民の姿を収めることが出来たこのフィルムの持つ価値は、とてつもなく重いのではないだろうか。

もうすでにそこにはない2007年の420工場とそこに鈍く響き渡る残響音を聞きながら、そんなことを思った。

http://www.excite.co.jp/ism/concierge/rid_5125/pid_2.html