エリ・エリ・レマ・サバクタニ (劇場映画)/5

2007年05月03日 14:43

年度: 2005
国: 日本
公開日: 2006年1月28日
“音”と“物語”の融合——俊英・青山真治の新たな冒険

公開時から、ほぼ1年を経て、吉祥寺バウスシアターの「爆音ナイト」で再見した。
画面に拮抗する「音」の暴力的なまでの存在を確信できた今回の形式の方が、この作品には適した上映方法だと思った。希有な体験をした。

映画は、生きることが、可能なのか。
そして、映画を見る私たちは、生きることが、可能なのか。

デジタルは、個体間の差異を否定する。デジタルとして存在すること自体が、「オリジナル」としての自身の存在を否定する。
デジタル・コピーの氾濫する現在の状況において、ならば、複製技術の祖とも言える「映画」は、「アウラ」を保持し得るのか。

レミング病」とは、感染すると等しく死を導く、つまり個体間の差異を消滅させるという意味において、デジタル化のプログラムである。

ノイズの語源は、「あたらしきもの」であると語っていたのは、灰野敬二だが、浅野忠信中原昌也は、ノイズを求めて、風の中を突き進み、トマトを潰し、ホースと扇風機と傘を組み合わせ、排管にワイヤーを張り、それ固有の音をマイクで集音してゆく。

何より、波である。地響きのような凄まじい轟音を立て、その瞬間そこにあることを否応なしにスクリーンに叩き付ける。生まれ続け、変化し続けることで、一つとして同じ形も音もないそれらの集合体としての波は、「差異の抹殺」に飲み込まれつつある宮崎あおいを、そして飲み込まれてしまった中原昌也を、このスクリーンへと導き、そして送り出す。

風景も波のように流れる。シネスコのなかを、浅原と中原は歩き、マウンテンバイクで疾走し、救急車が走り抜ける。そうした移動撮影(トラベリング)が、シネスコにはよく映える。本当にシャープな画面で見事だと思った。

見渡す限りの草原で、雲が去る時を待った浅野が、積み上げた4本のスピーカーと自身の背後のフェンダー・アンプから、触れることが出来ると錯覚する程大きな音で、ノイズを出す。
その爆音が空間に軋みを入れたのか、現在と過去が、東京と北海道が、いるはずのものといないはずのものが、同じ空間に流れ込んでくる。

その場、その瞬間にしか出現し得ないものを、体験すること。波のように、ひとつとして形をとどめない形と音と時に包まれること。草原の演奏を聴いて失神した宮崎あおいが、中原昌也の墓参りに向かう途中で「おぼえている。忘れない。」とつぶやいたのは、果たして生だったか、音だったか、時だったか。いずれにせよ、そこには、新たなノイズによる祝福があるはずだ。

ペンションの白い窓枠のなかでスープを食べる宮崎あおいや、闇の中にスクエアなフォルムを浮かび上がらせる浅野忠信の住まいを見ていると、『ミリオンダラー・ベイビー』のラストシーンを思い出した。レモンパイを食べに訪れたイーストウッドは背をスクリーンに向けて、窓枠の中で静かに佇んでいた。

今秋公開の新作、『サッド・ヴァケイション』も、凄まじいようだ。
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2007/0419_0212.php

映画を撮ることの困難とひたすら生真面目に向き合う作家の、次作が待ち遠しい。

参考
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2005/0213_1846.php
http://d.hatena.ne.jp/MiyAzy/20070225
http://d.hatena.ne.jp/hj3s-kzu/20060201