断絶/TWO-LANE BLACKTOP/1971/モンテ・ヘルマン

ジェイムズ・テイラーと、ビーチボーイズのデニス・ウィルソン、そして、ウォーレン・オーツが出演したこの作品を初めて見たのは、boid主催の爆音ナイトだった。成層圏の映画というくくりで、『ラブレス』などいくつかの作品とともにオールナイトで上映された。爆音を轟かせてパトカーから逃げる55年型シェーヴィーが画面手前に迫って来る。俯瞰ショットに切り替わり、ヘッドライトが車線左脇の2重の白線を捉えた画面に、タイトル、出演者が流れてゆくオープニング・クレジットに、深夜の吉祥寺でしびれたものだ。

今、自宅で見直してみると、これがいかにアメリカ映画であるのかがよく分かる。

作品の最後で、上映時間を終えたフィルムが燃焼して消えてゆく。その前のシーンで、シェーヴィーのボンネットを開けて、エンジンのタービンを確認するのだが、うなりをあげて茶色いゴムが回転するタービンは、映写機と見紛う程酷似している。フィルムの上映時間の分だけ、タービンが回り、フロントガラスのフレームの中に、陰気な眼をしてただ前を見つめる「The Driver」が、排気音とともに画面に居座る。

西海岸から東海岸へ、順取りで撮影された作品は、排気音とフロントガラスと、サイドガラスと、リアガラスと、モーテルとダイナーと、3箇所のレースで占められている。コークとチーズバーガーと、ジーンズを履いた若者がいる。道はまっすぐで、時々雨が降る。金はない。目的もない。鈍い鉄板に覆われた55年型改造シェーヴィー・ボックスと、カナリアイエローのボディに鮮やかなレッドラインが入った最新型70年GTOが、ひたすら走り続ける。「The Driver」は時計を見ない。走り続けて、夜が来て、朝が来る。「GTO」が律儀に着替えるカラフルなVネックのセーターの色で、かろうじて日数の経過を把握できる。アリゾナに行こう、シカゴに行こう、そこでゆっくりしようなどと停滞を申し出ると、「The girl」は「The Driver」や「GTO」から去って行く。

モンテ・ヘルマンは、別に抽象的な作品を撮ろうと思ってはいなかったのではないだろうか。アメリカの国道を高速で何時間も走った時の、空虚な感覚を正直に映画にしただけではないだろうか。

僕も2日間だけ、フラッグスタッフからモニュメントバレーへ、そしてグランドキャニオンを経由してフラッグスタッフへ、時速120kmから150kmで走り続けたことがある。道は、気が遠くなる程真っすぐだった。両脇の乾いた大地と、それを横切る道路。フロントガラスの前の風景が変わらない。アクセルを踏んでも、前の車との車間距離が縮まらない。そのうち、時計を見なくなる。どれだけ道を進んでも、どれだけ時間が経っても、目的地には辿り着けない。それどころか、どこに向けて、何のために、どのくらいの間、走っているのかすら忘れてしまいそうになる。「The Driver」の走ったアメリカの国道を、僕も確かに走った。

フロントガラスと排気音。どこにも辿り着かない、気の遠くなる程真っすぐな道。
これがアメリカ映画でなくて、何だろうか。

そういえば、二日目の最後、車を返しに行く2時間前くらいに、突然豪雨に襲われた。派手な音をした雷と、叩き付ける雨音。しばらくして、ケロっと晴れた。洗車する手間が省けた。しっかりと虹も出た。喜んでいたら、空港に曲がる道を通り越して、ずいぶん迷った。虹に見とれながら、アメリカでのドライブが終わるんだな、と思った。

最も安価にレンタル出来た白いシェーヴィーを返して、一泊した後、モーテルからフラッグスタッフ空港へと黄色いタクシーに乗った。ドライバーのおじさんと、『Seachers』と、AIGの破綻の話をした。それから、フラッグスタッフからモニュメントバレーにタクシーで行くと、いくらかかるのかを聞いた。往復で500ドルくらいと言われた。でも、タクシーで行こうなんて人は、アメリカが果てしなく広いってことを分かってないんだ。2日間走り続けた僕は、それが少しの誇張も含んでいないことを理解していた。「全くですね。」そう返して、二人で笑った。