オリヴィエ・アサイヤス/『NOISE』/2005 日仏学院、中原昌也×ジム・オルーク=suicidal 10cc Live

■ありふれたノイズ

Sonic Youth日仏学院boid中原昌也には頑張って欲しい。
・ノイズは好きではない。とりわけ、つまらないノイズは。
・このブログはほぼ存在していないに等しい。
・ただ、製作中の小説に必要になる可能性があるので書き残しておきたい。
以上の前提で書こうと思う。

『NOISE』については、ニール・ヤングジム・ジャームッシュの関係、つまり『イヤー・オブ・ザ・ホース』や『デッドマン』のような作品を期待していた。しかし、ライブや音の内容、そして映像のクオリティも、それには及んでいなかったのではないだろうか。ライブの面子としては、アフリカ勢が少し面白かったくらいに思えた。Sonic YouthのMIRROR/DASH、TEXT IF LIGHTのパフォーマンスも、わざわざ映画館で見るようなレベルではなかったと思う。赤いジャガーを抱えるキムの姿を描いたポスターが良かっただけに、残念だ。もっとも僕は、Sonic Youthのファンではあるが、SYRなど(ノイズ/実験音楽的な)サイドプロジェクトは好きになれないし本体に比べて品質も高くはないと考えているので、そもそもこの映画の観客としては適していないのかも知れない。映像については、監督を含め数人が即興で撮った当日のフェスティバルの映像を編集したものとのことだが、これも別にたいしたものではなかった。例えば、クローズアップの使い方などライブ映像を捉える上で有効な手法が適所で機能していなかったので、よくCSなどで放送されているある野外フェスのライブ映像の方がまだ「見ていられる」ように感じられた。(思ったとか、感じられたとか、主観的な語彙ばかりで恐縮だが、当日映画を見ていて、あまり真剣に見る価値のないものに思えてしまったので、集中力を欠いた状態で座っていたためである。)トークショー後に上映された、『デーモンラヴァー』のサウンドデザインのメイキング「特典映像」の方がよほど僕には面白かった。
映画のためにそこで作られる音も、監督やバンドの面々が話し合いながら作業にあたる様子も、観客としてはなかなか見る機会のない貴重なものだったからだ。

青山真治監督とジム・オルークトークショーは面白かった。特に、著作権料の日米間の差が興味深かった。だが、例えばかつてのスコセッシや『デス・プルーフ』のような、既成の洋楽の曲が映像と相乗効果をあげているような映画を作ろうと思うと、日本の監督はアメリカの監督に比べて、金銭的にも圧倒的に不利になるようなので、洋楽を当たり前のようにくぐり抜けてきた日本の監督たちにとっては大きな課題になるのではないか。

Sonic Youthにおけるノイズの位置づけ

ジム・オルークが来ていたので、アホな質問をしてしまった。申し訳ないです。

映画を見ていて思ったのだが、かつてはサイドプロジェクトとして出していた「ノイズ」は、2000年以降は本体の曲の一部として回収できているのではないだろうか。例えば、"Free City Rhymes"の冒頭と途中のサーストンのノイズ/アルペジオは、ドラムスティックをギターの弦に挟み込んで音を出しているし、曲終盤の「騒音」は、それこそNYCの「崩壊」を予期しているような衝突音を経てサーストンのドラムスティック・ノイズのアルペジオによる曲の再生へと向かう。変則チューニングや彼らの曲のスタイルも、かつては「ノイズ」の側面、つまり非メインストリームであり、新しさを備えていたと思うが、25年もキャリアや、多くのフォロアーを見ても、Sonic Youthの「音」はもはや「ノイズ」ではないのではないだろうか。長いキャリアの一端を担っただけの自分には答えることができないと断った上で語ってくれたジムによれば、Sonic Youthはノイズ/非ノイズを分けていないという。曲の一部になっているのだから、もはやノイズを「内包」していると僕は考えている。何しろ、"NYC Ghosts & Flowers"なのだから、Ghostsとノイズとともに同居していると思った方が自然だろう。

また、Pro Toolsをレコーディングで使っているようだ。ただ、大幅な編集作業のツールとしては使っていないのではないか。いくつかのインタヴューを読む限り、サーストンがアコースティックギターで作り上げてしまっている曲もあるということだから、取り溜めた音を積み上げてゆくのではなく、基本的な骨格はサーストンのアイデアにしっかりとあり、肉付け作業でメンバーの貢献があるのだろう。"Pink Steam"の歌が始まるまでの長い演奏など、"CORTEZ THE KILLER"を思わせる実に堂々とした「オーソドックスでロック的な」展開であり、Pro Toolsによる編集の影響は、作曲の段階ではあまり感じられない。新譜のリリース時には、サンレコやギターマガジンにインタビューが掲載されると思うので、それを楽しみにしたい。

■『NOISE』ではない?
以上をふまえると、Sonic Youth本体が普通に演奏をしていた"FROM THE BASEMENT"の方が、音楽映像としても楽曲の質としても優れていたように思える。また、オリヴィエは、良い映像が取れるまで粘るというエピソード(『デーモンラヴァー』では、イエローのシーンが思うように取れず開店時間を遅らせたなど)をあちこちで聞くので、瞬時に的確な判断を下してゆく今回のような撮影方法は、あまり得意ではないのではないだろうか。(しかも監督以外の人間たちが各々撮影した映像も編集しなければならないし。)

また、Sonic Youthのサイドプロジェクトも、「ノイズ」ではない/「ノイズパフォーマンスとしては質が高くない」ように思えるので、撮影題材としてもあまり魅力的ではないのではないだろうか。

朝の11時から並んでチケットを取ってまで見るような映画ではなかったなぁ、というのが、僕の感想だ。

■新作の『夏時間の庭/Summer Time』http://natsujikan.net/ は素晴らしいそうなので、『clean』を越える傑作を期待して見にゆこうと思う。

中原昌也×ジム・オルークsuicidal 10cc Live
これは、当人たちも分かっているだろうが、演奏中にばたばた人が帰っていったり、トイレにいったりするようなライブは、面白くないのである。また、個人的には音源やエフェクターのフィルターを操作することを主体とした「ノイズ」は、「ノイズ」としてありきたりだと考えている。そうした音を加工する「機能」は元々、その機材に組み込まれているのだから、規格内というか、想定内の音しか出てこないのではないか。アマチュア・ノイズミュージシャンや面白くないノイズが、似通った音しか出す事ができない理由もそこにあると思う。

学生の頃、「ノイズ」を演奏するアマチュアからプロまでけっこうな数の音源やライブを経験した。秋田昌美でさえ、「以前はノイズという言葉とか存在自体がある種の政治性を持ちえたから、わざと言っていた部分もあるし、戦略としてノイズというタームを打ち出していくということを意識的にやっていました。しかし今や誰でもノイズ、ノイズという時代になって、もうなんの力も持たなくなったし、僕は自分の音楽をもはやノイズだとは意識しなくなりましたね。」(ユリイカ/「ポスト・ノイズ」/2005/青土社)と語っているくらいである。アマチュア・ミュージシャンや面白くないノイズの代表が、フィルターやエフェクターのつまみをいじるだけの「音」ではないだろうか。
僕が「ノイズ」として面白いと思うのは、灰野敬二デレク・ベイリーのように身体性を伴ったものだ。例えば灰野敬二の場合、当時(10年前くらい)使っていた機材は、テレキャスターやSG、BOSSのエフェクター、JC、あるいはドラム、ベースと「ごくごく普通の」機材ばかりだった。にも関わらず、ソロライブで出される音は、「ひずみ」ではなく、正しく「ゆがみ」と呼びたくなる程、強烈に空間の「歪み」を意識したものだった。ドラムにしても、一音一音気を注入して叩いていると思える音なので、硬質でリズムもおかしかった。なぜああも凶暴で鼓膜を突き刺すような音が、平凡な機材から出てくるのか。ライブの翌日にまで持ち越される耳鳴りに苦しみながら思ったものだ。金属を身につけていないのに、空港の金属探知機のゲートでよくひっかかるというエピソードを踏まえて、「ノイズ」とはその人の発する波動のようなものだとインタビューで語っていたが、そうした、「何故こんな音が出てくるのだろう」と疑問に思えるような「音」でないと、「ノイズ」としては面白くないのだろうか。アマチュアのノイズミュージシャンがよく「カオスパッド」を使っていたが、指でなぞって生まれるほど、「カオス」は簡単に生み出せるものではないはずだ。

ありふれた騒音と、「ノイズ」とは似て非なるものだと思う。
少なくとも、それに商品価値はないのではないか。