『女の歴史』/成瀬巳喜男/1963(昭和38年)/シネスコ/126分/東宝  ドライな早さ

小説の残りを書き上げて、8月中に家を出ることが今の希望なのだが、映画ばかり見に行ってしまい、小説がなかなか完成しない。まぁ、小説の中身に関連することなので、見に行かねばならないのだが。

それにしても、相変わらず腹の立つことが多い。
PFFでは一度しか上映されなかった『スペース・カウボーイ』も、客席は半分ちかく埋まっていなかった。この2000年のフィルムを、30歳以下の人はスクリーンで見ているのだろうか。傑作『ブラッド・ワーク』の時もがら空きで、猛烈に腹が立ったので、これは小説に書いたのだが、イーストウッドのなかで、決して突出しているわけではない『スペース・カウボーイ』だからといって、スペースシャトルや宇宙空間を、せいぜい40インチのテレビの画面で見て済ませるというのは、いくらなんでもひどい。

文化事業部以外は、下劣で卑劣極まりない朝日新聞など、読む気にもなれない人は多いと思う。そういう人にこそ、何度も言うように、勝谷誠彦のメルマガを取って、朝日新聞の醜態を確認すべきである。昨日のメルマガも、読んでいて朝から頭がくらくらするくらいに腹が立った。

2009年8月6日号。<日本国内の銃器根絶もできないのになぜ世界から核兵器をなくせると思えるのかが私にはわからない>。

海外の左翼はどうだか知らないが、日本の「左翼」は、自分の主張のために現実をひどく歪めた形で認識するという意味において、基本的に凄まじく頭が悪い。末端ともなると、その破綻ぶりはもはやコントだ。学生の頃に北朝鮮拉致被害者の方々のシンポジウムを開催した際にも、核マル派とそれに洗脳された学生がシンポジウム当日には早稲田の正門及び本部キャンパスに大挙して押し掛けて妨害をするので、トラメガで奴らのバカが炸裂した主張を、ひとつひとつ論破していったのだが、それだけで笑いが起きるくらい、下手な漫才よりもボケとしては機能していた。あの時も、核についてボケたことを言っていて、確か二度目のシンポジウムを新学生会館で行った際に、核マルの手下の6年生が懲りずに核のことで自分たちの妄想を言いに来て、元高校球児のTの肩に突っかかって来たので、流石にTも怒って言葉と体の圧力でエレベーター手前のロビーにまで押し返していったのだが、あれもほぼコントで、爆笑だった。

朝日新聞は、それと大差ないことを会社規模、全国規模で行っているので、始末が悪い。

う〜む。また脱線した。
脱線ついでに、日経の夕刊にフジロックの記事が載っていて、Dinosaur.Jrが写真入りで取り上げられていた。


 同様に、重厚な存在感をみせつけたベテランが米国の3人組ダイナソーJrだ。1985年にデビューしたオルタナティブロックのけん引役で、97年に解散したが、2006年に再結成。全盛期をほうふつとさせる演奏だった。

 轟音ノイズのギターを中心に、質量の大きなサウンドでぐいぐいと迫る。J・マスシスのボーカルは淡白だが、かえって存在感がある。重たく、切れ味の良いリズムに乗って多くの観客が激しく体を揺り動かし、飛び上がる。ざらざらとした音の手触りは90年代の方法論だが、変わらない説得力を持っている。(8月3日 夕刊 雨空に木霊したフジロック

「初日、メーンステージのトリを務めた英国のバンド、オアシス」の記述よりもたくさんの言葉を費やしたことと、新聞にしてはまともな記述をしていることは、いいと思うのだが、「ざらざらとした音の手触りは90年代の方法論だが」というのは決定的に間違っている。Blue cheerの昔から、今日のBORISに至るまで、優れたロックバンドは、「ざらざらした音の手触り」なのである。無論、FUZZやディストーションで歪んだギターの音が「ざらざら」しているだけではなく、「重たく、切れ味の良いリズム」に、つまりわれわれのボディを叩く低音のベースとそれを引き締めるドラムの音の上に、轟音のギターを乗せるのであれば、ざらついていなければ土台に負けてしまうし、轟音のざらついたギターの音こそが、その場に居合わせた人々の鼓膜と頭をヒットする、シンプルで非常に有効な手法だと分かっているから、それが取られ続けるのである。

それは別にロックバンドに限ったことではなく、トム・モレロの新しい別プロジェクトであるStreet Sweeper Social Clubでも同じだ。
http://www.myspace.com/streetsweepersocialclub

さらに言えば、サマーソニックで来日するソニック・ユースモグワイティーンエイジ・ファンクラブ、トリッキー、マーキュリー・レヴといった、ベテランたちも「ざらざらとした音の手触り」を残しているのだから、ロックでは広く共有されている手法の一つとさえ言えるのかも知れない。
http://www.myspace.com/hostessentertainment

こういう音を出す日本のバンドは、本当に少なくなったなぁ。残念だ。


さて、それはそれとして、5週目に突入した神保町シアターの成瀬特集である。
相変わらず、平日でも観客が埋まっており喜ばしい限りである。昨日の最終回である『女の歴史』が終わった後、観客がのろのろしながら階段に向かっていると、ぽつんと客席に座って涙を拭きながら、おばさん二人が、何度見てもいいわね、成瀬さんは、他のものが見れなくなっちゃうわね、としみじみ話していて、思わず、そうですね、と相槌を打ちそうになった。

この回は、珍しいことに、学校帰りらしい女子大学生が4、5人で来ていたのだが、面白かったけど登場人物が多過ぎて関係がよく分からなかった、と大きな声で話して笑っていた。

確かに、今の若者が見て来たであろう説明過剰で停滞しがちなテレビドラマや映画などからすると、後期の成瀬はあまりに早い。

映画は時に、ジグソーパズルに喩えられる。90分、120分という時間のなかで、ピースを埋めてゆくことで、次第にその全体が明らかになってゆく。特にアメリカ映画は、その過程が親切で効率的である。何をどの順番で映すかが、人物の造形や事態の推移の説得力に関わる説話手法が主に用いられるので、部分は結果的に、全体に効果的に奉仕するように仕組まれている。
『スペース・カウボーイ』では、主要な10人程の登場人物が、実に効率的に造形されてゆく。

カラーでスターが所狭しと競演する『娘・妻・母』(1960年)のように、余計な要素が多い場合は、監督の采配が行き届かないためかうまく機能しないのだが、モノクロ、高峰秀子主演で、脚本を削った作品は、「紙切り」のように見事に決まる。
「つまんない」、「なんか、あれは間に合わせに作った。でも女の一生ものよ。」と高峰秀子が語る『女の歴史』であっても、それは手抜かりなく行われる。

何しろ、遥か後半で起こる山崎努の死は、驚くべきことにオープニングの救急車のショットと、また自動車事故ですって、いやね、と美容院内の会話で切り込まれ、仲代達矢に至っては、やはり後半、終戦後の東京で抱き止める高峰秀子への告白を、前半、宝田明との結婚式の友人代表の挨拶で、新郎を差し置いて行っているのである。こちらとしては、誰が死ぬのか、いつ告白するのかを気にかけながらの、サスペンスが鋭く持続する上映を体験することになる。

「切り絵」というと、語弊を生む。伏線を張り巡らせ、過程を華麗に見せる、探偵映画的な早さの映画が「切り絵」だとすれば、「切り絵」という芸として見せる意識をせぬままに、切り込みを入れてゆき、次へ次へとその速度を加速してゆく。

それは、脚本を削り、美術や演出も極力簡潔に済ませる成瀬巳喜男高峰秀子にとって、自身を「ドライなんですよ、私は。」と認識する言葉をもっていえば、ドライな早さとでも呼べる、必要なときに最小限の切り込みを入れ、さらにそれを加速してゆく所作ではないか。「成瀬さんが(その仕事を)いいと思って、私もいいと思った。それでいいんだよ。」という、観客はおろか、成瀬組の人たちにさえ撮影を終えてみなければどんな映画になるのか分からないほどの、全体を見通している目でなければ追いつけない、極度の省略が、切れ込みの意味ではなく動作の鮮やかさを際立たせ、残された白地も猛烈な早さで切り取ってゆく、奉仕を放棄しているかにさえ見える部位の集積としての、不気味に刃音が響き続ける、邪気なきサスペンスになる。

ドライである、ということは、留まらないということなので、次から次へとショットは前へと押し出される。
出征記念に写真を撮るとなれば、最期の写真撮影になるのだから、大抵はポーズを固定し静止する撮影シーンを映すのだが、このフィルムでは、カメラマンは玄関で靴を脱ぐだけでカメラさえ構えずに画面から去り、出来上がった写真をはらりと落とすだけだ。
誓いを立てた後も、草笛光子と出征前日まで密会していたことで宝田明に裏切られた高峰秀子は、線路沿いを歩きながら、信じていたものがガタガタと崩れ落ちた、などと呟きはするが、列車が左から右へと、大きく黒いフォルムを伴って走り去ると、さっさと加藤大介の店に寄って仲代達矢を待とうとするし、会ったところで、店に落ち着く事なく、「かあちゃん」と呼びかけ痴漢をはたらく酔っぱらいのおやじにまたも遭遇し、追い出されるようにして焼け野原となった東京の野外に出る。結婚式での告白、疎開先での家族一緒の宿泊を経て、ようやくそこで仲代達矢高峰秀子をその腕に抱くのだが、今度は子供たちを左から右へと走らせることで、肺炎の子供のために大金をはたいて手に入れたペニシリンを一刻も早く飲ませる、という本来の上京の目的を、つまり女ではなく母の本性へと一瞬で立ち返らせ、子供が待っているんです、と仲代達矢を振り払って疎開先の栃木へと帰らせる。

ドライである、ということと、ユーモアの欠如は同義ではない。
成瀬と高峰は、「さっぱりして」ドライではあるが、映画にはユーモアが円滑油として欠かせないことを充分認識しているので、即物的で悩まないという、高峰とは別のドライさを備えた賀原夏子を姑として配置することで、感傷に浸らない高峰だけでは渇き過ぎるシーンを、 賀原夏子の笑いで潤す。差し出された現金は収める、男の我が侭は勝手に任せる、などという言動が、笑いと「お義母さんたら」というセリフで締めくくらせる。それにより、結果として、高峰秀子は、スカッシュの名プレイヤーがコンパクトなスイングで返球と次の送球を連続して済ませるように、自分のうちに出来事を引き止めることなく、賀原夏子という壁に跳ね返った球を反射的に打ち返し、それをもって次の送球へと繋げるのである。

このドライな早さには、邪気が込められていないので、悪気はないのだが、遅くて停滞する映画に慣れた人には、「面白かったけど・・・よく分からなかった」ということにも成りかねない。ジグソーパズルのように、絵柄が描かれたピースで埋められてゆく親切で効率的な映画を期待していると、面食らうのではないかと思う。率直に言えば、恥ずかしながら成瀬は代表作を随分前に5本ほど見ただけで、その内容もあまり詳細には記憶していなかったので、今回、多くの作品を初見で見ながら、僕も成瀬を初めてスクリーンで見る観客として、感動を味わっていたのだが、少しは映画を意識的に見ている身でさえ、日常生活の、つまり家族と金と男と時局に翻弄される女たちの珍しくもない話を、これほど現代的で高度に高速に演出していて、それを切り込みとして次々に入れる度に驚き、またその手つきがあまりに鮮やかなので思わず笑ってしまうのだが、先の女子大生などの普通の観客が、或は成瀬を貧困と女性の日常生活を〜などと偏見で見ていた過去の評論家たちが、「分からない」と口走ってもある程度は仕方のないことなのかも知れない。

しかし、その手つきすら見事に後ろへすっと隠す成瀬巳喜男高峰秀子のフィルムは、「何度見てもいいわね、成瀬さんは、他のものが見れなくなっちゃうわね」とおばさんたちを涙ぐませる、上質のドラマなのである。

高峰秀子ファンとしては、もんぺ姿からぼろぼろの白シャツ、果ては防災頭巾を被ってのバケツリレーによる消火訓練姿(無論、後半で起こる東京大空襲の事前準備である)まで、今作で成瀬は、どんなに粗末な衣装であっても、高峰秀子の存在感を貶めることが出来ないということを粒さに確認しているのではないか、という程の大衣装替え大会を楽しませて頂いた。花嫁姿も並ぶものがない程高貴であるが、個人的には、蚊帳を使った、白バックならぬ黒バックの浴衣で座ったシーンや、疎開先や崩れた東京の、広い空とがらんどうの空間での立ち姿に、あぁ、やはり偉大だ、と感動してしまった。

これで「なんか、あれは間に合わせに作った。でも女の一生ものよ。」なのであるから、成瀬・高峰のコンビは、本当に恐ろしい。