『パリ・オペラ座のすべて』/フレデリック・ワイズマン/2009

割と志望度の高かった会社に落ちてしまった。空は良く晴れて、朝から落ち込むのもバカらしいので、文化村までワイズマンの新作を観に行った。18日までらしく、早くせねばと思っていたのでいい機会だった。

http://www.paris-opera.jp/
http://www.bunkamura.co.jp/cinema/time/index.html

ワイズマンの新作、しかもオペラ座だというのに、予告編が品の欠片もない海老蔵のナレーションであることが気に入らず、また連日満席らしいので、後回しにしていた。

サービスデーということもあり、1時間前に着いたが、整理番号は150席中133番。間もなく売り切れたようだが、来場者は途絶えず、劇場スタッフが詫びていた。

ウィークデーの昼時ということもあり、客席は妙齢の女性で埋まっていた。あと、10年、20年したら、自分も本格的なオヤジになってしまう事実を改めて突きつけられた。

ワイズマンらしい、パリのロングショットのカットを畳み掛けるオープニングに、オバさん方はついてこられたか心配したが、その後も手を緩めることなく、レッスンも会話もゲネプロさえも寸断し、ワイズマンのフィルムのリズムの中へと再編成してゆく。背景や状況の説明もなく、時間軸も組み替えられた3時間の上映に、オバさんたちが戸惑わないか心配だったが、席を立った人は、一人だけだった。

『チチカット・フォーリーズ』や『DV』、『パブリック・ハウジング』の社会組織のなかで交錯する人生の断片や、見終わった後に強烈な原罪に苛まされる『肉』、或は僧院の中で理想に至ることのできない激情をピアノ弾き語りの賛美歌に乗せ録音レベルが割れる程の声量で歌う『エッセネ派』。そうしたエモーショナルな瞬間は、このフィルムには、もしかすると少ないのかも知れない。(未見の『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』と同様なのだろうか。)

代わりに、このフィルムに溢れているのは、世界最高のバレエ団員達の、驚くべき肉体だ。
エッセネ派』のような例外を除き、ワイズマンは、基本的に同じ人を二度と撮らないという原則を持っている。公演に向け、練習を重ねてゆく様子を取材しているので、同じダンサーやスタッフが何度も出てくることになる。レッスンから、芸術監督たちの会議へ、そして衣装スタッフの準備風景へと、目紛しくショットは変わってゆくのだが、組み替えても組み替えても、バレエダンサーたちの肉体が出てくると、それ自体のスペクタクルによって、画面が輝く。

少しはダンスや舞踏といった、踊りの舞台や映像を見て来たが、特にバレエとコンテンポラリーダンスは苦手だった。型にはまった踊りも、独りよがりな身体表現も、見ているのがつらいからだ。
だが、オペラ座のダンサー達のバレエとコンテンポラリーダンスは、全く別物だった。
レッスンで振り付け家が、「軽々と飛んでくれるね」と半ば呆れ気味に叫ぶほど、エトワール達は高く飛ぶ。圧巻は、『ジュニス/GENUS』というコンテンポラリーダンスで、男女のエトワールが、ストーリーさえない振り付けを踊ってゆくのだが、とりわけ女性のエトワールの、大きく、速く、高く、強いダンスは、このフィルムのクライマックスとして位置付けられ、上映も彼女たちのゲネプロで終わる。女神が踊っているようにさえ思え、見とれてしまった。

何の事はない。これまで目にしてきた踊りは、質が低かったのだ。
10代半ばで、世界最高のバレエ団に入団し、40歳の定年で引退し、以後は国家公務員として年金受給者となる彼ら彼女らのダンサーとしての人生は、何とも短い。だが、とてつもなく太いのだろう。年金制度の変更について、経営者と芸術監督の説明を聞くシーンがあるのだが、一番手前のエトワールの両足は、ロボットのように大きな靴に覆われている。その紫の靴の内部は、羊毛だろうか、白い毛が密集し、彼女の足を暖めている。髪を後ろで結わえ、化粧もせずにその話に聞き入る姿は、バレエに人生を捧げて来たことを伝えて、とても美しかった。