『グラン・トリノ』/ケツを拭うのか拭わせるのか

新宿、紀伊国屋の裏のピカデリーで『グラン・トリノ』。バルト9、改装ピカデリーと新宿駅周辺にシネコンが出来てしまうと、さすがに遠くて古いコマ劇場の映画館は敬遠しがちになる。

予告編の日本映画が、どれもコスプレものばかりでうんざりする。漫画原作、フルCG。子供だましのような作品ばかり。
グラン・トリノ』については、試写の感想や文芸誌の対談(「文学界」)などを読んでしまっていたので、物語の筋や演出についての予備知識はあったが、それでもやはり細かな演出のひとつひとつが素晴らしく、ただただ感嘆。助けたスーを助手席に乗せて白いフォード製ピックアップ・トラックを運転するイーストウッドの顔のアップや、金網越しに神父やタオといった若者と対峙する姿のショットには、本当に参ってしまう。

継承する、ということは、自ら示してみせるというだけでなく、自ら犠牲になることを厭わない気概を要する。アメリカ映画で繰り返し演じられてきた死にゆく男たちは、髪を整え、服を誂え、心身を整えて死地に赴く。『ラスト・シューティスト』のジョン・ウェインのように、毅然と死の身支度を進めるクリント・イーストウッドを見ていると、死にゆくカントリー・シンガーと甥のフィルムを、『センチメンタル・アドベンチャー』などと不必要に感傷的な邦題を付けてしまう日本という国が、「サムライ」などという言葉を使うことなど許されるのか、という気さえしてくる。
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現実と対峙しない者は、生きることも死ぬことも避けて、漫画やアニメ、CGやリメイクといった隠れ蓑に逃げるということなのだろうか。イーストウッドの深い深い皺や、嗄れた声の方が、幼稚なコスプレよりも余程、スリリングかつ偉大である。「力」を持ったものが招きそして担う、危機とそれのために帯びる責任/行動。存在すること自体が危険を発生させ、その機会が幸か不幸か与える存在価値。そうした意味での、存在の際(きわ)にさらされた者の、切迫感と充足感とで震える姿と声。第一、イーストウッドがもはや銃の引き金を引くことなく敵と向き合い、かつ2時間の間、緊張を途絶えさすことがない演出と存在の凄みに、映画業界のコスプレマニアどもは驚くべきである。死にかかっているという現実を直視せずに、己のちんけなイマジネーションで拵えた虚像をCGで見せて、「絶景、絶景」と満足げに言う新作映画のCMがTVでも流れているが、全く暢気なもんだよ、ホント。

別に死に様を示して欲しいとは思わないが、イーストウッドのいない国で、せめて映画がまだ生きてゆけるという小さな希望を見せてくれと願うのは、厳しいのだろうか。まぁ、こちらは面白い映画を観に行こうと思っているのであって、日本映画を観に行こう、アメリカ映画を観に行こうと映画を国で判断している訳ではないのだが、明日、小津の墓参りに行こうとしている者としては、何だか寂しい。

それにしても、クライスラーが遂に破産とは・・・。