メディアの使い方が苦手で、かつ既存のメディアに弱過ぎる日本のひとたち/Beastie Boys/『長江哀歌』/Nick Cave
日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045_3.html
昨日、『長江哀歌』を観に行った。ベネチアで金獅子賞を受賞したこともあり、日本でもロングランヒットを記録したそうだ。公開直後に銀座のテアトルに観に行ったときには、そこそこの人の入りだったので、後からロングランヒットしたと聞いても、ちょっと信じられなかった。しかし、昨日のユーロスペースは割と人が入っていて、シルバー世代の方など普段はここに来なそうな客層も含まれていたので、なるほど、と納得。
http://www.bitters.co.jp/choukou/
再上演スケジュール
http://www.bitters.co.jp/choukou/sc.html
東京は今日で終わりだけど、愛知、神奈川なども控えているようなので、見逃した方はぜひ。
それで、このフィルムを見直していてつくづく感じたのは、中国国内の凄まじい格差についてと、ジャ・ジャンクーの志向性として、無駄なものをそぎ落として、ソリッドで叙情的なものを残す、あるいは抽出するところが、ブルースに近いなということだ。そういわれても良く分からないという人も多いと思うので、ツタヤディスカスなので、これを借りて見てみると面白いと思う。
あんまり書くと、差別的になるので難しいのだが、権力による抑圧と搾取の状況が、かつてのアメリカの黒人社会のそれと似ているのだと思う。人の顔付きを含めた佇まいが濃厚にそれを想起させる。
といいつつ、『ザ・ブルース ムーヴィー・プロジェクト』で好きだったのは、以前も書いたように古いブルースをカバーしたニック・ケイヴの叩き付けるアクションと振り絞った歌声なのですが。
Nick Cave - I feel so good
そして、ジャ・ジャンクーが描き続ける中国の「崩壊」は、ペドロ・コスタのリスボンのそれと共鳴しているのだが、この現実の壊れた様について、どれほどの人がそれを目撃したのだろうか。
「サブカルチャー強いよね、日本は。それも全然否定してないよ、日本のサブカルチャー。日本発グローバルでさ。ただ僕自身がサブカルチャーはそんなに……。僕は漫画読まないしアニメみないしさあ。志向性がちがうだけで。
日本のサブカルチャー領域でのWeb文化の隆盛は十分に分かっていて、敬意を表しています。だから、今さらそういう事例について議論しても、日本のWeb文化が特に変化したとは思えないんだよね。
ただ、素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。そういうところは英語圏との違いがものすごく大きく、僕の目にはそこがクローズアップされて見えてしまうんです。」
WEBもそうだが、漫画やアニメ、ゲームといった制作者のイメージが現実を覆い隠すメディアに浸りきっている日本の人たちは、多分、そこで充足してしまっているのだろうなと思う。
『(複数の)映画史』のなかで、ゴダールは、「映画が最初は思考のために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう」と語っていた。
程度の差はあれ、映画が、漫画やアニメ、ゲームと決定的に異なるのは、それが現実の一部だったのか否かということだろう。漫画やアニメ、ゲームは、制作者の意図するものだけで映像が成立してしまう。制作者のイメージの外部/他者としての世界の断片が、そこには致命的に欠如している。小説は言語という外部によって構築されているのに対し、漫画やアニメ、ゲームは言語の濃度が映像によって非常に薄められている場合が多いため、たとえ制作者が現実をトレース/デフォルメしたとしても、それは現実の一部としての、つまり外部/他者を内包出来ない。
漫画やアニメ、ゲームは、それが巧みであればある程、現実から離れてゆく。トレース/デフォルメという移築作業は、こと漫画やアニメ、ゲームにおいては、現実からその表現形式の内部への埋没化を、つまり現実を覆い隠すものとして、作用せざるを得ない。(コマ撮りアニメ–ションが、現実の撮影を制限された東欧/ロシアで発達したことも必然だったというつもりはないが。)
優れたフィルムは、ジャ・ジャンクーのそれに顕著なように、身体や物質やその集結としての風景を、それを見ることが出来なかった未来のどこかの人々の前に、投射するという意味において、漫画やアニメ、ゲームの優位に立つ。それは、恐らく、先にその世界/現実の断片を目にした者の、先人/大人の身振りとして、漫画やアニメ、ゲームよりも相応しい。
そう考えると(そう考えない人もいるだろうけれど)、漫画やアニメ、ゲームは、子供じみたものが多い。もちろん、そうでない「傑作」と呼ばれる作品もあることは承知しているのだが、そうした「傑作」を好む人と、そうでない作品を好む人との差を考えると、後者は作品の与える環境にすすんで埋没してゆこうとする傾向が強いことは否めない。
とまあ、日頃考えていることを、改めて痛感した駄目押しは、これ。
Beastie Boys killing it live on Letterman '04
ただ通りを直進してきて、スタジオに入って来るだけなのだが、閉塞したテレビスタジオで幼稚なことばかりしている日本の歌番組との格差を、まざまざと見せつけられたのだった。
日本にBeastie Boysなどいるわけがなく、"Boys" & Girlsばかりなんだよなぁ。
大人がもっといろんなところに出てこないと、ますます日本は疲弊してゆくだろうな。