『clean/クリーン』/オリヴィエ・アサイヤス/フランス・イギリス・カナダ/2004

http://www.clean-movie.net/
http://www.imageforum.co.jp/theatre/index.html
http://www.imageforum.co.jp/map.html

ユーロで台湾の映画を観たが、開始15分ほどであまりに凡庸で退屈な映画だということが分かり、出ようか出まいか迷い始め、結局頑張って1時間位経過して、屋上から教師の車のフロントガラス目がけてお茶のパックを投げつけるという所を、フロントガラス越しに撮影したシーンで、流石にもうこれは観なくていいやと思い、出た。ちょっと前に、前列の女性も出ていた。上映中に劇場を出たのは、本当に久しぶりだ。予告編で少しだけ期待していただけに、残念だった。

今回のチケットを買うときに、一緒に『clean/クリーン』の前売りを買ったので、行こうかと思ったのだが、マイクのシールドを買わねばならなかったので、今度にした。

boidのブログでは、集客がそれほど順調ではない様子であり、青山真治のブログでは、覚醒剤事件に絡めて、この映画を避難する人もいるそうな。
http://www.boid-s.com/diaries/477.php
http://blue.ap.teacup.com/himaraya/
探してみると、映画関連サイトには一般のコメントだけでなく映画ライターの駄文も書き連ねてあった。

日仏学院での日本初公開で深く感動し、都内で上映の機会がある度に通った。特に、バウスでの爆音上映は、ガス・ヴァン・サントの『ジェリー』と共に、忘れられない経験となった。

ここに書いても、上映の客足が伸びるとは思えない。カンヌ2冠とはいえ、シネフィルの人たちの評判も、さほど高くはないようだ。書いても時間の無駄であり、映画音痴からクレームが来る恐れもある。

それでもあえて書くのは、個人的に2000年以降のフィルムのなかで、とても好きな作品であるからだ。マギー・チャンの曲など、欠点もあるが、それでも愛おしいと思える。


とはいえ、評論家ではないので評論は書く事が出来ない。もっと基本的なことだ。
http://d.hatena.ne.jp/rockushi55/20090709#1247142428

「特に、刑務所の接見シーンとラストのボーカル入れのシーンの演出は、何度も見て勉強して下さい。セットと衣装の重要性を学んで下さい。」と書いた理由を分からない人たちが多いようなので、うんざりしたからだ。
典型的なのが、某映画サイトの「編集長」の以下のコメントだ。


http://cinema.walkerplus.com/movie/title/mo7083.html

自分が買ったヘロインを打った旦那(彼も忘れられつつあるロックスター)が中毒死している。いわば、のりピーどころか押尾学であって、これが芸能界に再デビューするにはちょっとドラマが足りなくないか。
育児放棄して旦那の両親に預けていた息子と暮らすためという目的があるのだけれど、それだったら(思いっきりネタバレ書くけれども)、自分が生まれたサンフランシスコを見たいという息子を、旦那の両親に預けたまま、自分だけサンフランシスコにレコーディングに行くのはおかしくないか。
それは結局仕事を選んだということになるし、その選択自体は責められはしないけれど、それだと息子と暮らすために生まれかわるというテーマがはぐらかされてしまう。
もう一度芸能界に戻って忙しい日々で、また育児放棄して、またクスリに手を出すのかとさえ思ってしまった。
ドラマの流れから言えば、旦那の両親のもとから息子をこっそりサンフランシスコに連れて行って、レコーディングに臨むが、芸能界には戻らない、という結末じゃないの?
(ええっ?・・・)と思っちゃったッす。


まともな映画評論家など、日本で数人しかおらず、残りはまともに映画をみることすら出来ないライターばかりだ、ということを、まともな映画評論家の記事等で散見するので、驚くことではない。そういう輩が、失笑ロキノンの『CUT』のような、児童就労法に反して小学生が作るクソ雑誌に馬鹿なことを書いている分にはいい。だが、曲がりなりにも、日本有数の映画情報サイトの「編集長」の名のもとに、見当違いも甚だしい小学生のようなコメントを掲載してはならないのではないか。

そもそも、映画評論の初歩として、本や授業で、映画はストーリーだけを追うのではなく、画面に映っているものに注意しろ、と習うはずなのだが、それすら出来ていないというのは、つくづく情けない。

サンフランシスコに、息子を連れて行かなかった理由は、息子の存在を軽視しているためではない。
オーヴァードーズで夫が亡くなった後、それまでのけばけばしいメイクとライダース・ジャケットという、いかにも「ロッカー」な格好のマギー・チャンは、メイクを落とし、鮮やかな青い囚人服に身を包み、青白い顔で自らの胴を交差させた両腕で支えるようにして、接見に訪れたレーベルのマネージャーの前に、分厚いガラス越しにその姿を現す。そして、彼に対し、ドラッグを渡していない、などと嘘を告げる。

夫が亡くなった時、彼女は夜の湾岸の工場の仄かな灯を車内のフロントガラス越しに眺めながら、夫に手渡したドラッグを夫と同じように打ち、夫と同じように意識を失った。

朝が来て、彼女は目を覚まし、夫は目を覚まさなかった。

モーテルに戻ると、すでに警察に包囲されており、ガラス越しに異変に気付くも、入室を警察に禁じらる。"Let go!"と叫びながら、制止を振り切り室内に潜り込んだ彼女が目にしたのは、既に死者となり、警察の管轄下に置かれ、触れることすら許されぬ、夫の体であった。

人生をともにした最愛の者を失う、ということは、そうやすやすと他人と共有出来などしない。
自らの過ちが、それに加担してしまったとなれば、尚の事、その断絶は深い。
このフィルムに於いて、ガラスは、見えていながら関係を遮断し、マギーと夫に対する、世間や友や親族や家族の不理解をもたらす残酷な装置として機能する。幾度となく、マギー・チャンは周囲のものへと助けを求めて接近するが、透明な壁はそれを容赦なく叩きのめす。生まれ変わりたいといくら願っても、世間も友も親族も息子も、マギー・チャンを許さない。

マギー・チャンにとって、生まれ変わることとは、手放していた息子を取り戻すことと、遠ざかっていたミュージシャンとしてのキャリアを夫の残した音楽とともに始動させることである。

だからこそ、彼女は、息子を置いて一人、サンフランシスコへ飛び、パートナーのギタリストが音入れを終えたトラックに、白い顔と鮮やかな青い服の姿で、プロデューサー(エンジニア)がモニタールームの厚いガラス越しに見つめるなか、歌を吹き込むのである。
その姿は、息子にさえ理解が及ばない、二人だけの再生である。私たちは、その光景を、マギーのすぐ脇を律儀に周回するキャメラのレンズ越しに目撃する。


推測だけれど、これを撮ったとき、オリヴィエ・アサイヤス監督は、主演のマギー・チャンにメロメロだったのだろう。たしかにマギー・チャンは魅力的に撮れている。だけどそれだけ。
フランス人って、しばしば東洋の女に入れ込みすぎる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%9B%BC%E7%8E%89


怠慢なライターが、勝手な憶測をすることも、驚くべきことではないし、マギー・チャンが離婚したという、映画業界で有名な事実を知らないことも不思議ではない。ましてや、映画サイトの編集者の端くれとはいえ、「マギー・チャン」と検索して、1位に表示される上記のページを読んでみるなどという、ごくごく簡単な手続きをしなかったとしても、怒ってはならない。

だが、2001年に離婚したオリヴィエにとって、既に失った元妻マギーを、レンズというガラス越しにしか見つめることが出来なかったであろうこの2004年のフィルムを、自分の理解不足と妄想とで冒涜するのは止めろ。
もう少し映画の基礎的な見方を勉強して出直して来い!