『アブラクサスの祭』

映像と音で画面に存在することについて

大型のスピーカーでノイズギターを鳴らす、という点において、『エリ・エリ・レマサバクタニ』(青山真治監督)をどうしても想起してしまう。『エリ・エリ・レマサバクタニ』は、「レミング病」という、感染すると等しく死に至る、つまり個体間の差異を消滅させるという意味において、デジタル化のプログラムそのものといえる死の病が蔓延し、国の大半が廃墟と化した世界が舞台であった。デジタル・コピーの氾濫する現在(2005年当時)の状況で、複製技術の祖とも言える「映画」は、「アウラ」を保持し得るのかという問いに対し、ノイズは、未だ判別出来ぬもの、新しいもの、個々に宿る代替不可能なものとして存在していた。

アブラクサスの祭』において、ノイズは、スネオヘヤーが妻のともさかりえに語るように、良く分からないこともあるがともかくも存在し、抱え込み、共に生きるものである。つまりそれは、こころであり、自分であり、他人であり、人であり、犬であり、波であり、商店街であり、お寺であり、世界である。端正なフィックスショット(固定ショット)と丁寧な音響処理によって、映像と音が画面で存在感を高めている。冒頭とラストで、マイクを通した音で語りかける声、父のほっしゃん(いい存在感だった)を自殺から救えなかったことを悔いる高校生に、自殺の理由は分からないし、父を救えなかった後悔の念も消えない、だからそれを抱えて生きろと話した後、心臓をドンと叩き、自分の心臓もドンと叩く音。画面いっぱいに広がる黒く荒い海。そして、クローズアップで真正面から撮影されるスネオヘヤーの顔面。そり落とした頭と照明によって、肉の塊がそこにあるかのような、生々しい顔面の存在。また、ほっしゃんのピックを額にあてて、力の限り振り下ろした腕でギャンと鳴るジャズマスターの弦の束の音。

スネオヘヤーが波打ち際で演奏するシーンでの、演奏の身振りと音(音響担当の大友良英が別録りしているようだ)のズレや、そのシーンでキャメラに波飛沫がかかったまま撮影し続けた判断、相変わらず演技がまるでできない本上まなみを配役したことなど、疑問の残る箇所はいくつもある。また、加藤直輝の作品と鏡についてなど、考えなければならない箇所もある。そうした部分については、映画評論家やシネフィルの人達の言葉を待ちたい。たまたま、梅本洋一先生も同じ回に見にいらしていたので、近いうちにnobodyのサイトに映評が掲載されるかもしれない。楽しみだ。

加藤監督の作品としては、個人的には初めて笑ったり涙ぐんだり出来たことも、意外だった。おじいさんが2人ばかり終盤に退席して行ったが、ただの映画ファンの僕は楽しく見る事ができた。